「ぐ、う」
 悪魔が少女の呻き声を上げて倒れるまいと踏ん張ります。ウタゲ、王子、そしてアベコベさんの視線の先で、悪魔デタラメは何度かふらつき、最後の力を振り絞るかのように、にんまりと笑いました。
 は、は、と子供番組の悪役女幹部のような美しくも恐ろしい音色で悪魔が薄く笑い、

「でたらめ!」

 その声は確かに歌姫のものでした。けれどどこか悪魔本来の声のようで、かと思えば若い穏やかな青年の声のようでもあり、さらには男とも女とも取れない中性的な響きですらありました。
 アベコベさんが身構えたまま眉を顰め、
「初めて聞く魔法です。皆さん、え?」
 注意を促す言葉が途切れました。聞いていたウタゲは目を丸くします。
 アベコベさんの口から出た声、それは先ほどまでウタゲが使っていた、悪魔デタラメの声だったのです。
「何よ、これっ! どうして?」
 ウタゲが紡ぐ女性らしき声は、よく聞けば本来アベコベさんが魔法に使っていた声でした。
「そ、そんな! って僕もか!」
 慌てる王子の声は愛らしい歌姫ヴォイスでした。
「ということは、アイツの声はキヌゴシ王子のものね」
 ウタゲが睨む先で悪魔デタラメが起き上がります。さすがは異界の住人、王子の剣による傷は深くはないようで、苦しそうながらもしっかりと立ち上がりました。
「気付いたか。どうだ、それで魔法は使えないだろう」
 視線と共にそんな言葉を受けたアベコベさんは冷静な口調のまま、
「そうかもしれませんが、そうですね……。とりあえず王子、歌ってみてください」
「ああ、分かった」
 目的を察したのか、悪魔の表情が険しくなります。王子は構わずコーコントウザイ国歌を歌い始めました。間奏まで鼻歌で歌いますが、
「……まあこんなところでしょうね」
 何も起こりませんでした。ウタゲと王子が項垂れ、悪魔はどこかほっとしたように得意げな顔になります。
「あの反応からすると、声を入れ換えた結果について熟知している訳ではないようです」
 アベコベさんはウタゲたちに聞こえるように言って、
「神鳴、夕立、雁字搦め、鬼火焚き、木っ端微塵、木霊、旋風、氷柱、鎌鼬、綺羅星」
 流れるように呪文を並べ立てます。けれどその中のどれも、効果を現すことはありませんでした。それに対してもアベコベさんはふむ、と頷くだけです。
「せめて歌姫の声ならば何か出来たのかもしれませんが、これでは仕方ないですね」
「どうだ! これでは手出しが出来ないだろう!」
 すっかり元気になった悪魔が胸を張って王子の声で高笑いします。
「非常に嫌な気分だ。ウタゲ姫の気持ちがやっと分かったよ」
 キヌゴシ王子が迫力の薄い少女の声でぼやき、ウタゲは
「あたしはだいぶマシになったわ」
 そんなことを言いつつも、視線は鋭く悪魔を射抜きます。得意顔の悪魔とイライラ満点のウタゲの間で視線が噛み合い、バチバチと見えない火花を散らしていました。
 停滞し始めた状況を気にも留めず、アベコベさんが口を挟みます。
「ウタゲ姫、貴女になら魔法が使えるかもしれません」
「本当?」
 ウタゲの表情が輝き、悪魔が怯みます。
「呪文を教えて!」
 悪魔へ注意を払うことは忘れず、不敵な笑みでウタゲが問いました。アベコベさんは薄い唇に指先を当て
「では、私の名前を呼んでください。呼び捨てでお願いします」
 歌姫も王子も悪魔も、その言葉に首を傾げました。傾げましたが、ウタゲは高らかに声を張り上げます。
「あべこべ!」
 光も煙も音もなく、魔法は放たれたのかどうか分かりませんでした。
「成功、したのか? あっ!」
 警戒を崩さずにキヌゴシ王子が呟き、その声が自分のものであることに驚きました。
 しかし、
「やったわね!」
 ウタゲの緩んだ頬がすぐに硬直しました。
「っ、な、な、何でよー!」
 広間に木霊する声はアベコベさんのものでした。
「あれまあ」
 デタラメの声でアベコベさんが低く驚きます。それを聞いた三人がデタラメを睨みつけました。
 歌姫の声は再び悪魔の元へ戻ってしまったのです。
「ふははっ、ここまで有利な展開になるとは思っていなかったが、お前たちも分かっただろう。歌姫の声を手にした俺に勝てるはずなど――」
「姫、もう一度です」
 女幹部に戻ったデタラメの演説を遮ってアベコベさんの指示が飛びます。ウタゲが大きく息を吸って、悪魔が舌打ちします。デタラメの手が床に落ちていたカップの欠片を掴みウタゲに投げつけました。
「あべ、きゃ」「でたらめ!」
 ウタゲの呪文が途切れた隙に、悪魔がもう一度叫んでいました。その声がまた混ざり合うように揺らぎ、呪文が終わると同時に安定します。
「今度は、あっ!」
 真っ先にしゃべった王子の声は、悪魔デタラメのもの。
「お願い! ……って、これか」
 祈るように搾り出したウタゲの声は、変わらずアベコベさんの声です。
「では私は、ほう」
 言いながら笑顔になるアベコベさんには、ウタゲ姫の声。
「な、それじゃあ俺は……!」
 目を見開いて戸惑う悪魔には、キヌゴシ王子の声が行き渡っていました。
「ほう。ほうほう」
 フクロウの物真似のように、アベコベさんが上機嫌に繰り返します。相当なショックを受けているらしいデタラメが、細い目の放つ視線に竦んでいます。
「私は先ほどから考えていたのですが、アベコベの魔法使いに歌姫の声が入れば、充分に言霊使いとして相応しい存在になるのではないでしょうか」
 囁くようなアベコベさんの歌姫声は、一言一句逃すことなく三人の鼓膜に届きます。
「魔法使いの声を手にした歌姫は、先ほど実証されたとおり言霊使いに相応しい。知られた呪文ではありませんので、正しい効果が出たか否かは判断出来なかったようですが」
 黒マントのギザギザに切った裾を掴んで、ウタゲはアベコベさんを見上げました。
「この先は、聡明なコーコントウザイの歌姫であれば、申し上げなくともお分かり頂けますね?」
 冗談のような恭しい言葉でアベコベさんが問いかけます。ウタゲは大きく頷いて、緑色の瞳を立ち竦む悪魔デタラメに向けました。
「そんなっ、そんなこと、許さない。俺は許さないぞ!」
 半狂乱のデタラメが唾を飛ばして叫び、一歩踏み出します。
「姫、聞いてください」
 アベコベさんは目の前の敵を無視してウタゲに小声で説明します。自分の声で紡がれる魔法使いの言葉に、ウタゲも冷静に、どこか楽しいとさえ思いながら聞き入ります。
「よろしいですね?」
「ええ。いつでもオッケーよ」
「そこは『結構』もしくは『大丈夫』と仰ってください」
 緊張感のないやり取りの間に、悪魔はだいぶ距離を詰めていました。
 言葉になっていない叫び声と共に、悪魔は滅茶苦茶に両腕を振り上げて突進してきます。
 そして、悪魔の腕が二人を襲う、直前に
「やあっ!」
 王子の剣が悪魔の腕を止めました。四人分の影が一つになるほど近づいて
「今だ!」
 王子が低い男の声で吼え、悪魔の絶叫が響き、ウタゲとアベコベさんは
「いっせーのーで!」

「あべこべ!」

 歌姫の声と魔法使いの声を、ただ一言に重ねました。
 光も音も煙も、魔法らしい演出は何一つなく、けれどあべこべの魔法は四人に降り注ぎます。
「声、僕のだ! 戻ったぞ!」
「私もです。姫は?」
「戻ったわ! 久しぶりにすっきり歌えそうよ」
 みんなが口々に声を確かめ、ウタゲ姫が不敵に笑いました。視線の先で本来の声をどもりどもり発する悪魔が、今はとてもちっぽけに見えます。
「さあ歌姫、コーコントウザイのために歌ってくれ!」
 王子が安堵の表情でウタゲの背を押します。
「ええ!」
 ウタゲは大きく深呼吸して、そして歌い始めました。
 古き良きコーコントウザイ王国の、美しい自然と温かい人々と平和な歴史と、そして気高きコーコントウザイ語の文化を讃え、それらが永久に続くことを祈る、コーコントウザイの国歌が国中に響き渡りました。


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