二、絹漉し

「なんで、なんでよどうしてよーっ!」
 ぐすぐすひっく、と泣き声を上げながらウタゲがしゃくりあげます。それを横目にも見ないで、スウェットにトンガリ帽子のアベコベさんは、顎を押さえてうーむと唸りました。
 スキューバ歌姫連れ去り事件に端を発する一連の騒動は、コーコントウザイでは指折りのウィザードであるアベコベの助力により終結を迎えたかに見えました。しかし事件は彼が魔法を使ってからが本番でした。元に戻すための魔法をかけられた歌姫は、なんと男の声になっていたのです。
 危険な冒険を繰り広げて心労も溜まっていた王子はそのまま倒れ、泡を吹きながら城の医療班に運ばれてゆきました。残されたウタゲとアベコベさんも一度城へ向かい、報告の途中で王様にも白目を剥かせ――ウタゲはアベコベさんを頼ることにしたのでした。
 魔法には決して詳しくもなく興味もなかったウタゲですが、自分の声に手を加えたのは悪魔以外には彼のみです。他のウィザードには分からないことが分かるかもしれません。王家が選んだウィザードに間違いはなかろうという適当な判断でもあります。
 その上、意外や意外、アベコベさんもこの件は無償で引き受けると発言したのです。理由を聞くと
「私の魔法で貴女、延いてはコーコントウザイを救えば、コーコントウザイ語による呪文を正式に法で認可してもらえるかもしれませんので」
 と、ウタゲにはよく分からないことをつらつらと語りました。何やらコーコントウザイ語について長々と語っていたような気もしますが、ウタゲはほとんど聞いていませんでした。
 そんなこんなで、ウタゲは現在アベコベさんの自宅へ転がり込んでいるのでした。一人暮らしのアベコベさんのお家は、館と呼ぶに相応しい、小さく安っぽいながらも服装と同じ異様さを漂わせる不思議な一軒屋でした。
 そんなアベコベハウスの一室で、ウタゲは先ほどからしつこく嘆いていました。
「これじゃ歌えないわ。音域も狭いし何より歌姫の力が全くないじゃない!」
 若い男の声がヒステリックに叫びます。奇怪な光景を背に、辞書をケースに仕舞いながらアベコベさんが
「それは困りましたね。コーコントウザイは貴女が復帰するまで歌姫不在の国になるのですか?」
「そうよ。なんで駄目だったのかしら。あなたとても優秀なんでしょう?」
「世間様に問えば肯定されるでしょうね。それなりに手応えもありましたし、私も驚いています」
 一片の驚きも見せずにアベコベさんが言いました。ウタゲは全身で溜め息をついて応接セットのテーブルにもたれかかります。そんな些細な発声でさえ、聞こえるのは場違いな低音。やっと声が戻ったと思ったのに。溜め息もつけなかった砦での数日の方がマシだったとさえ思えてきます。
 アベコベさんが振り返って、魔法の杖のようにペンの先をウタゲに向けました。
「まずは事の始まりから整理しましょう。海で悪魔が使ったのは確実に魔法ですね?」
「多分そうね。音響機材をごっそり抱えていたから、あれで呪文を使ったんだわ」
「呪文は聞きましたね? どんな呪文だったか覚えていますか?」
「何か言ってたのは聞いたけれど……分からないわ。あたし魔法のことはさっぱりなの」
「それは困りましたね」
 あっさりと行き詰まり、ウタゲの中で溜め息の種が再び膨らみ始めました。アベコベさんは一人、右手のペンをくるくると回します。
「はあ。魔法を見ていたキヌゴシ王子も倒れちゃうし、あなたが解決出来なかったらあたしはどこへ行けばいいの?」
 悲劇のヒロインにしては何もかもが面倒くさいといった様子でウタゲは嘆きました。自分では上げたつもりの語尾も一定以上の高さにはなりません。
「悲観的になる必要はありません。わざわざ海にまで音響機材を持ってきたということから、相手が魔法を使ったのは確実です。今度は魔法をかけた悪魔が誰なのか、調べてもらいましょう」
 アベコベさんがそう言って、ウタゲは頷きながらずるずると洟を啜りました。


 ところが、アベコベの館に戻ったウタゲは『無期限』と大きく判子を押された許可証を前に唸っていました。無理に高い声を貫こうとすると気味が悪いと判明したため唸り声は低く、今にもキレそうな若者のようです。
 あの後二人は王城へ行きました。助けられた時はあんなに格好よく思えた王子が、よれよれで椅子に沈んでいました。服装や背景は初対面とは比べ物にならない豪華さと上品さでしたが、力強く輝いていた高貴な青い瞳は、瞬きを忘れてドブ川の鯉のように濁っていました。
 恭しいのは姿勢だけのアベコベさんはそんなことには目もくれず、淡々と要求を並べ立てました。
 一つ、悪魔の使った魔法を調べるために王立図書館の全面使用を許可すること。二つ、主犯の悪魔を特定すること。三つ、歌姫救出に立ち会ったキヌゴシ王子を捜査に協力させること。
 キヌゴシ王子は、ぴくりとも動かずに黙ってそれを聞いていました。
 聞き終えてからたっぷり二分が経ち、青息吐息の王子は生気のない声で
「図書館の使用は許可しよう。禁書の貸し出し以外ならば、今すぐ許可証を発行する」
 そう言ってぷつりと黙ってしまいました。
 しかしアベコベさんの本当の要求はそこではありません。王家の悪魔捜索に関する全面協力こそが最大の目的です。
「王子はご協力頂けませんか。国のためでもありますが、何よりも、歌姫であったがために声を奪われたウタゲ姫のためでもあるのですよ」
 言われた王子は雷に打たれたかのように背筋を跳ねさせ、お人好し全開の表情でウタゲを見つめました。その目に浮かぶ葛藤を目ざとく察し、ウタゲも渾身の念を込めて青い双眸を見つめ返します。助けてください、あたしにはあなたが必要なの! 力の入ったヒロイン気取りのオーラが王子の良心に襲い掛かります。しかし、
「ウタゲ姫……ごめんなさい!」
 王子は女の子からの告白を断るかのように頭を下げました。
「えっ?」
 オーラを精製していたウタゲは呆然と口を半開きにします。
「協力したい、貴女を助けたいのはやまやまだよ。しかし、この件に関しての僕の役目はすでに終わったんだ。僕が今回派遣されたのは父、コーコントウザイ国王からの命令で、歌姫の救出だけが目的ではなかった。家来と協力して危険な冒険を乗り切り、本当の強さや王になる者としての覚悟を身につける。これが僕のもう一つの使命だったのさ。けれどそれは、もう終わったんだ」
「と言いますと?」
「僕はこの冒険でたくさんのことを学んだ。仲間と協力すること、身分にとらわれず実力を重視すること、力だけが強さではないこと……。ウィザードアベコベ、貴方から学んだこともたくさんある。王はこれで僕の使命は終わりだと言ったよ」
「では歌姫救出の使命はどうなるのですか? まさかこれで使命を果たしたなどとは仰らないでしょうね?」
 アベコベさんのきつい糾弾に、王子は
「すまない」
 ただ目を伏せるのでした。
 今まで蝶よ花よと育ててきた大切な跡継ぎをこれ以上危険な目に遭わせてはならない。それが王家の判断だったのです。
 いくら王子自身でも、王家全体の決定に一人で逆らうことは出来ません。しかもそれは自分の身を案じてのこと。お人好しの王子に親不孝は出来ませんでした。
「本当に、申し訳ない」
 必死に謝罪を重ねる王子に、二人は顔を見合わせてしぶしぶ王城を後にしたのでした。
 しかし、というか当然というか、王子に振られたからといって諦める訳にもいきません。アベコベさんは帰宅するなり本棚へと闊歩し、不安がるウタゲに
「私が貴女の声を取り戻しますので、ご心配なく」
 男らしく断言して分厚い本と格闘を始めました。
 しばらく図書館の使用許可証を睨みつけていたウタゲはスウェットの後姿に尋ねます。
「アベコベさーん。何か分かりそう?」
「いいえ。今調べているのは知り合いの連絡先ですので」
 寝そべったまま放たれた横着な質問に答えて、アベコベさんは分厚い紙の束をウタゲの前へ運んできました。古い紐で綴じられたそれは、どうやら住所録のようです。
 アベコベさんが開いたページを覗き込むと、そこには『対悪魔、協力者』の文字。頼もしい言葉と並ぶ住所の多さに、ウタゲの気持ちが少し軽くなります。低いままの声も多少弾みます。
「さすがは高級ウィザードね。悪魔対策に詳しい知り合いでもいるの?」
「魔法使いとお呼びください。そういう知り合いは何人かいますが……誰も彼もおかしな者ばかりですので、少々手間取ると思いますよ」
「それくらい構わないわよ!」
 回復してきたテンションもそのままに華麗なブイサインを決めて、ウタゲはふと動きを止めました。
「……構わないよ、とか言った方がいいみたいね、じゃなくて、いいみたいだな」
 男の声で普段のしゃべり方をすることに抵抗を感じ、ウタゲが何度も言い直します。
「私は別に気にしませんが、そうですね。これから行く先ではそうしてくれると有り難いです」
 真剣な顔で住所録を睨むアベコベさんに、ウタゲはなんだかとてつもない不安を感じました。


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