一、あべこべ

 昔々あるところで、とらわれのお姫様が王子様を待っていました。

 どんよりと空を覆う雲、窓を塞ぐ格子。お姫様がそれらを眺めながら整った眉を下げている部屋は、不気味な蔦の這う厳しい塔のてっぺんにありました。
 そこは悪魔の国でした。悪魔たちは、ある時悪魔の世界からやってきてたちまち弱小国を支配下に置いてしまった、この世界の絶対悪です。
 そして薄暗い部屋で気丈に唇を噛みしめる少女は、お姫様と言っても、王様の娘や王子様の運命の人ではありませんでした。王家どころか貴族でもありません。
 明るく赤茶けたショートヘアに緑の瞳というごくごく一般的な髪と目で、ごくごく一般的な体型の少女です。髪型の手のかからなさもさることながら、服装なんて安さ第一の通販で買った飾り気のないワンピースです。しかし、どこもかしこも一般的な彼女は、その声だけにとんでもない特別なものを秘めていました。
 そう、彼女こそはその歌声で悪魔から国を守る選ばれし歌姫、コーコントウザイ国のウタゲ=ジョールイなのです。
 ――なのですが、彼女は今、とらわれの身なのでした。
 ウタゲ姫は大きな目を眇めて床に突っ伏しました。泣き叫んだり助けを求めたりしたいところですが、そうもいきません。彼女の美しい声は、悪魔に奪われてしまっているのです。
 そもそも歌姫の声には悪魔を払う力があります。声さえあればこんな砦も見張りの悪魔も四小節でイチコロです。
 声が出るなら「あーあ」とでも言っていただろう形に唇を開いて、ウタゲは窓を見上げました。おどろおどろしい曇り空に、声を奪われたあの日のことを思い出します。
 忘れもしない、あれは先週の休日のことでした。ウタゲが趣味のスキューバダイビングを楽しんでいる真っ最中にあいつは現れました。防水加工の音響機材を背負ったあいつ、悪魔デタラメです。
 本来異界の住人である悪魔は、彼らが乗っ取った悪魔の国の外ではろくにその力を使うことが出来ません。ましてやウタゲは選ばれし歌姫、世界第三の国コーコントウザイを文字通り指先一つ動かさず守る予定の女です。
 しかしその油断が命取りでした。スキューバツアーそのものが悪魔による罠で、彼女はまんまと悪魔の国の海域に連れて来られていたのです。
 そうして彼女は声を奪われ、スキューバスーツからワンピースに着替えさせられて砦のてっぺんに幽閉されることとなったのでした。
 部屋に入れられた頃はもう何もかも終わりだわと思っていたウタゲですが、そんな結末では困ります。いくらコーコントウザイが世界第三の国でも、歌姫を悪魔に奪われたとなると国が揺らぐ危険性もあります。国はなんとしても歌姫を取り返しに来るはずなのです。彼女はそう信じていました。
 ウタゲは一つしかない扉を振り返って、難しい顔で祈るように何かを呟きました。


 ちょうどその頃、塔の螺旋階段を二つの人影が上っていました。かすかな光だけを頼りに、二人は石で組まれた歩きにくい段差を踏みしめていきます。
 その一人が階段の先を仰ぎました。
 無茶苦茶高そうな服を惜しげもなく汚し、背中のマントや握った剣もかなりボロボロの若い男は、なんとこの国の王子、カナメ=キヌゴシ=コーコントウザイその人なのでした。美しい金髪や整った顔はだいぶ煤けてここまでの道のりの厳しさを窺わせますが、王家の気品は疲れを見せない青い瞳にきらきらと宿っていました。
 目指す歌姫までは後少し。王からの命令で始まった長く危険な冒険も終わりが近づいています。けれど油断は禁物。ウタゲが聞いたら後悔で狂い死にしそうなことを自らに言い聞かせ、キヌゴシ王子は一歩一歩階段を上っていきます。
 そんな王子の斜め前に、もう一人分の人影がありました。こちらは影という言葉がぴったりな黒尽くめです。悪ければ寝巻き、よくても部屋着にしか見えないスウェットを裾がギザギザの黒マントで上半身だけ隠し、怪しいトンガリ帽子を被っています。肩の上で揺れるぱっつん髪も真っ黒です。
 影は細い指で帽子を上げ、どこまでも中性的な顔を覗かせました。薄い唇が開き、顔同様中性的な男の声で
「王子、五段先に注意してください」
 そんなことを言いました。ぱっつん前髪越しの細い目が進む先を睨みます。
「どうかしたのかい?」
 言われた王子は足を止め、男が睨む辺りに目を凝らします。現れる敵や罠は塔に近づくにつれて多く強力になり、たくさんいたお供の戦力は反比例して減ってゆきました。今や残っているのはトンガリ帽子のスウェット男だけです。
 その男が王子には止まっているよう指示し、一人で階段を上り始めました。自分が注意を促した五段目の前で一度止まり、怪しい段を思い切り踏みつけます。
「夕立!」
 突如壁から炎が噴き出し、スウェット男が右手から大量の水を発しました。目を見開く王子に、男が声をかけます。
「失礼しました。咄嗟のことだったので非合法の呪文を使用してしまいました」
 謝罪とは思えないほど涼しい顔で言う男にキヌゴシ王子は首を左右に振りました。
「いや、助かったのだからお礼を言いたいくらいさ。さすがは高級ウィザード、アベコベだな。値段に釣り合う、いや、それ以上の働きぶりだ」
「いえいえ、滅相もない。それに私は『魔法使い』ですから」
 男――雇われウィザードのアベコベさんはにっこり微笑んで右手の水を払いました。


 アベコベさんはウィザード――言葉による魔法を扱う専門家なのでした。
 言葉には力があり、相応しい者が口にすることで力となる、という古くからの思想を元に、協会が正式決定した呪文を学び実際に行使するプロフェッショナル。それがウィザードなのです。
 ところが、アベコベさんは平気な顔で語ります。
「そもそも外国語ばかりが正式呪文に選ばれるなんておかしいんですよ。言霊の国、コーコントウザイの国民たるもの、伝統あるコーコントウザイ語の意味を知らねばなりません」
 ここに来るまでに何度か同じことを聞かされている王子は返事をせず、代わりに
「姫の待つ部屋まで後少しのようだけど、この先に罠は?」
「今見える範囲には何も。行きましょう」
 二人はまた歩き出します。


 扉の外がにわかに騒がしくなって、ウタゲは床から身を起こしました。これまでになく慌てた見張りの声と、聞き覚えのない男の爽やかボイス、それと不安を煽る破壊音です。
 王子様かしら、とウタゲは期待のこもった表情で立ち上がりました。スキューバ事件の後でもこんな態度を見せるとおり、彼女はどちらかというと楽観的で、普通の女の子よりもちょっぴり肝が据わっているのでした。王子様が来たと確信している辺りはおこがましいともいえます。
 そうこうしているうちに、騒音は止み、見張りとは違う声だけが残ります。
 そして遂に、誰かが扉の鍵を外しました。金属の動く重々しい響きに、ウタゲも思わず息を呑みます。
 古めかしい扉が、大げさに軋みながら開きました。
 徐々に大きくなっていく隙間から、二つの人影が現れます。汚れていても豪奢な服を纏うキヌゴシ王子と、絵本から飛び出してきたようなマントと帽子姿のアベコベさんです。
「ウタゲ姫、無事か?」
 よく通る爽やかな声で王子が聞きます。ウタゲは激しく頷いて、輝く瞳で訴えました。早く声を戻して! といったところでしょうか。
「貴女が歌姫のウタゲ=ジョールイさんですね。悪魔に声を奪われたとのことですが、すぐに元に戻します。王子、少しだけ離れてください」
 アベコベさんはそう言って、王子が斜め後ろに下がったのを確認し、ちょっと眠そうだった表情を僅かに引き締めました。
「魔法を使います」
「『元に戻す』呪文は、えーと。リレ、何だったかな」
「いいえ。王子、この任務中は見逃してください」
 すでに隠そうともせずにアベコベさんが言います。ウタゲはあまり魔法に明るくないので、何でも良いから声を取り戻してくれ、と念じながら彼を見つめました。
 それに答えるようにアベコベさんは小さく頷き、顔同様に中性的な声で高らかに
「継ぎ接ぎ」
 光はなく、煙もなく、言葉の魔法が放たれました。
「さあ、これで声は元通りのはずですよ」
「はいっ!」

 すごく嬉しげな男の声がしました。

「……」
 辺りが一瞬で静寂に包まれます。ウタゲは嬉しそうな笑顔のまま小首を傾げて
「あ、あー」
 戸惑いがちな男の声がしました。テレビドラマで聞いたことのあるような、格好いい男性が困る声です。
 アベコベさんが眉を顰めます。
「あれ、あたし」
 今度は無理に高くした男の声でした。
 王子の顔面に『どんより』の四文字が浮かびます。
「あ、ああ、テステス、あれっ?」
 声を上げれば上げるほど、ウタゲの表情が崩壊していきます。
「っ、っ、きゃああああああッ!?」


 哀れ、なぜか歌姫の声は低くて素敵でとっても格好いい、完璧なイケメンヴォイスになっていたのでした。


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