「おはよう、ますたぁ」
 お嬢の声に目を覚まされた。長く彼女と暮らしてきて、初めてのことだ。
 三日である。残されているというより、その時間は私を追い詰めて愉しんでいるようにさえ思えた。年取った体が悪いのだか、怖じた心が悪いのだか、自分でもさっぱり分からない。
 ただ分かるのは、逃れようがないということ。
「ますたぁ。お返事は? 恥ずかしがり屋さんね」
 子供っぽく、お姉さんっぽく、大人っぽく。次々と口調を転じてお嬢が問う。やはりああ、愛しい。
「黙ってないでお返事なさいな。待ちくたびれちゃう」
 わざと大げさに袖を揺らす。乱れることのない襟元を隠して大きなあくびをひとつこぼす。
 おはよう。ごめんね、時々頭がぼうっとするので聞き過ごすところだった。
「それはいけないわ。おつむはね、使ってあげないと腐ってなくなっちゃうのよ。だからちゃんと、いつでも周りに気を配っておかなくちゃあ」
 おやおや、お前は怖いことを言うね。
「本当だもの。わたくしのお目目、見て御覧なさい」
 何をおっしゃる、信じていない訳がないだろう。私はお嬢の言うことはいつでもきちんと受け止めているよ。
「ま。なんだか親みたいなこと言うのね、ますたぁは」
 親みたいなものじゃないか。
「そりゃあ、わたくしはますたぁのおかげで息できるのだけど」
 そこまで面倒見ていたかい?
「ええもちろん。この館にますたぁがいなきゃ、わたくし乾いて乾いて、息できなくなるの」
 じゃあ、お外へ行ったらどうするんだい。誰がお前に息させてやるのさ。
「分からないわ。分からないけども、きっとお外にも、ますたぁみたいなのがいるんじゃないかしら」
 適当なこと、言わないでくれ。お前は私を、不安にさせないでおくれ。
「ますたぁが聞いたんじゃない。ま、おかしい」
 ウフ、ウフ、とお嬢があぶくを上げて笑う。艶っぽい瞳が私だけを見ている、すぐになくなってしまう快感。こういう時、私は生きているだけで心地よいと思えてしまうのだ。
 息するの、大事なことだなあ。
「そうでしょうとも。ね、ますたぁ。今日もわたくしに息、ちゃあんとさせて頂戴ね」
 お嬢は、時々うんと残酷なことを言う。そういう時、お嬢は決まって一等美人な、完璧な艶笑を私に差し向けるのだ。
 そういう目に、私は一人、殺されそうになるというのに。


 ひゅるうり、ふうるり、と、私の息が弱っていく。昨日までは思いのほか元気であったつもりだが、そんな空元気も一日前となると空気が抜けてしまって、いけない。
 このままではお嬢に気づかれてしまう。どうしたものかと思っていると、お嬢がじっとこちらをねめつけていた。
 怖い顔。どうしたんだい。
「ますたぁのせいよ。ばあか」
 こらこら、そんな言葉。使っちゃ、心が綺麗じゃなくなってしまうだろう。
「ますたぁだって、言葉、今日は綺麗じゃないわ。それに」
 それに、なんだい。
「なんでもないわ」
 もうちょっとしか一緒にいられないんだ。遠慮なんて、するものじゃない。
「なんでもないのよ。いいから、ますたぁは黙っててくださる? 喋らないでいただきたいの」
 どうして、
「だから黙って、ますたぁ」
 お嬢は強く言い放つと、ふいと体を背けてしまった。
 声を絞ってその赤い背を呼ぶと、眠い目を無理に鋭くしたような、切ないにらみ目をきかされた。
「ますたぁ、分かってらっしゃるかしら」
 何を。お前は、なあんにも教えちゃくれないじゃないか。
「それは、ますたぁも同じじゃないの。わたくし、悪いことしてないわ」
 いいや。そうやってごまかしているのは、悪いことだ。
「ますたぁだってしているじゃない。ずるいわ、一人きりだなんて」
 一人きりがずるいものか。大勢のほうが、きっとずるいさ。
 そう言うと、お嬢は赤いおべべをたくし上げて真白い襟元を隠した。
「ますたぁ、わたくしさみしい」
 そんなこと、お言いでないよ。淋しいなんて、ちっぽけな年寄りのようなこと。
「いいえ、いいえ。わたくしだって、分かるもの。息が苦しいの。これきっと、さみしいのよ」
 私は何も言えなかった。この期に及んで、なんと情けない。私はお嬢の淋しい顔に淋しい顔で返して、その場を繕ったような気分になるだけで、精一杯なのだ。
 私たちは孤独である。
 二人きりは息が苦しくて孤独である。
 そうして、一人は息ができなくて淋しいのだ。


 息が止まる。
 ひっそりと続いていたものが根元から消えていく。
 青々と私の中でうごめいていた命が、お嬢の吸い込む水の中に消えていく。
 お嬢は空気の泡を吐き出す。私を見る。水の天井に口付ける。
 お前はこんな日でも、美しい。
 そう言うと、お嬢は着物を揺らめかせて水面近くから私を見た。水底の私は、お嬢をじっと見上げる。美しいよ。
 分かっているんだね、お前は。私が死んでしまうこと。
 お嬢は、眠たい目をしたお嬢は、鮮やかな赤のおべべを大きく揺蕩わせる。
「ますたぁってば、ほんとにばか」
 ひどい言われようだ、なあ。
「だって、本当のことじゃない。本当に、どうして今になって、そんなこと尋ねるの。わたくし、見えてないふりしてあげたのに」
 仕方ないよ。だってずっと分かっていた。私がもうすぐ死ぬことも、お前が私より先に、そのことに気付いたことも。
「何、それ。ずるいわ、一人きりさみしく死んでしまおうなんて、やっぱり、ずるいのよ」
 一人きりは、ずるくないと、言ったろう。
「うそ。お別れは、ますたぁが先に一人きり決めてしまったんじゃない。ずるいわ、せっかくわたくしが、幸せな勘違いしたまま、死なせてさしあげようと思ってたのに」
 お嬢は少し、苦しそうにしていた。私に至ってはもう、声も出ない。違う、私の息が止まりかけているから、お嬢は苦しそうなのだ。
 お嬢が天に向かう。息をする。私は、淋しい。
「ね、ますたぁ。もう少し、待ってね」
 お嬢が笑む。
「もう少しで、おじ様がお迎えにいらっしゃるの。それまで待ってね」
 お嬢が、
「空気が、だいぶ薄まっちゃったの。ますたぁ、も少し、息、してね」
 吸う。吐く。
「だって、ねえ」
 最後の泡が、体を離れた。
「あなたがいないと、わたくし生きていかれないわ」
 さみしい思いが満ちる水の館に、あぶくが生まれて浮かんで弾ける。お嬢が、目を閉じずに微睡む。外で、扉の開く音がする。叔父上はお目目を覚ましたお嬢に、私のようにごちそうしてやってくれるだろうか。
 お嬢の息で水が揺れたので、私はふっと、お嬢みたいに達者に話せたのなら、ずっとお嬢と二人きり、ひっそり息していられたのかなあと、夢を見た。
 あぶくがなければ、夢は褪めない。昼寝というのはいいものだ。
2011/夏

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