お嬢が貰われていくことになった。
 それまであと一週間である。館の住人は今や、私とお嬢だけとなっている。また淋しくなってしまう、大丈夫かい。そう問うとお嬢は瞼を閉じるみたいな顔して
「あら。置いていかれて一人でさみしくなってしまうのはあなたじゃないの、ますたぁ」
 と飄々としていた。今日はお別れが決まった日なのですよ。お前と私は他人様の都合で別れ別れになるのですよ。こう思ったけれども私は言わなかった。どうもいけない。私はお嬢にも「暇人なますたぁですこと」と笑われているほど、何にもしないでぼうっと生きてきてしまった。
 だけれども、今回のことは私だけが悪いのでもないと思う。まったく、叔父上という人はどこまで無理強いをするのだろう。お嬢が彼に向って口の利けないのをいいことに、あれよあれよとお嬢の引取りを決められてしまった。ああいけない、先から心の中がしまったばかりで、ああいけない。
 お嬢は何時ものように、どこを見ているのだか分からない目を泳がせて、私には眠たそうに思える。おねんねですか、と言うと
「子ども扱いしないでくださる?」
 なんて可愛いことを言う。この優雅なお声も今週限りだと思うと、今さらながら叔父上を見上げていただけの自分が情けない。そうして、お嬢に惜しんでもらえない自分が淋しいのだ。


 お嬢は後六日でお嫁に出てしまうのですね。そう言うと、お嬢は少し着物の裾をはっとさせて、袖口で襟元を隠す仕草をして見せた。
「ええそうなの。いいでしょう? 花嫁衣裳はどんなのがよろしいかしら」
 いつもの赤がよろしいでしょう。
「まあ、ますたぁは大真面目にふざけたことをおっしゃるのね。まあおかしい」
 私はそんなにおかしなことを言ったかい。お別れをそんなに特別にお考えでないよ。お別れは悲しいことなのだから。
「違うわよ。ますたぁにはお別れかも知らないけれど、わたくしには新しい方々との出会いでもあるのよ。ますたぁはお年だから、どうしてもそんなふうなことばかり思ってしまうだけなのだわ」
 お嬢が新しい方々と出会うのは悪いことではないと思う。私だってこんな話が来る前は、この館に引きこもってばかりいないで、よその皆様にうちのお嬢の美しいことを見せびらかしてやりたいものだと思っていたのだから。ああだけど、もっと早くによその方々とお会いしておったら、知らない殿方がお嬢を欲しいと言ってきたかも知れない。
 それは嫌だなあ。
「なにをそんなに疎ましがっているのかしら」
 お前が出て行ってしまうと、それは悲しいということを思っていたのだよ。
「馬鹿。やっぱりお年を召されると頭のめぐりが悪くなるのじゃない? まあなんて悲しいことなんでしょう」
 まあ、まあ、と嘆きながらお嬢は天を仰ぐ。大切な今日もこうして、自分は淋しく過ごしてしまう。


 残された時間は五日である。家の外からは教会音楽とやらが流れ聞こえてくる。窓から見える重そうな建物からも、次から次へと音色がこぼれ出してしまうのだ。どうしてこんなちっぽけな私が、自分から流れ出すものを押しとどめることが出来るだろう。
 ここから見える空はいつも暗い。けれどそれでも、はるか遠い太陽の歩むのに合わせて、刻々と光の重さを変えていく。毎夜訪れる暗さでもって、私をひどい現実の渦に巻き込んでしまう。
 お嬢との時間は長くない。お嬢はもうすぐ出て行ってしまう。それだけでない、お嬢が出て行くと決まる前から、私が終わるときはとうに分かっていたのだ。だからかもしれない。叔父上の威圧に対して、こんな思いがありながらも反抗できなかったのは。
 いや、そうではない。私だからなのだ。私だから、お嬢を引き渡してしまったのだ。
「真っ暗なお顔だこと。見ているのも嫌になっちゃう」
 言葉とは裏腹に、お嬢がじっと私を見つめる。今日もお嬢は美しい。真っ赤なおべべがふんわりと靡いて、とても女らしい。
「何、いまさらのことじゃない。わたくしはとってもとっても美しいのよ」
 そうだね。美しいお前がいないと、この館はきっと、今より寂れてぼろぼろになって、心の淋しい所になってしまうだろうね。
 自分で言ってみると、少し気持ちの重しが取れる。お嬢はぷいと隅っこに行ってしまった。だけど、真っ暗な顔なんかより今の顔のほうが、ずっとお嬢に見てもらいたいものだ。
 お嬢は一日、ぷんぷんしていた。


 ともにいられる時間を、半分過ぎるかすぎないか。その境界はとても太い線で引かれているようであり、しかし一足に飛び越えてしまえる太さでしかない。そんな線引きをかざしたのは叔父上で、許したのは私自身である。
 むつかしい気持ちになる。腹立たしい。いまさら悔めるわけでもなく、まだなお涙を流せるでもなく。
 そのひと時を待ってのち、お嬢がそばへ寄ってきた。どうしたんだい。
「お察しの悪いますたぁね。お時計は読める?」
 ごちそうの時間だね。忘れていた。自分には必要のないものだから。
「非道いわ」
 袖を振って、お嬢が憤慨を示す。それからちょっと、私を見上げる。叔父上が来たとき、私もこんな顔だったのだろうか。
「ねえますたぁ、わたくしがお嫁に行く先には、あなたみたいなますたぁはいらっしゃるかしら」
 さあねえ、と私は答えるしかなかった。
 悪いけれど、私もお前と同じで外には明るくないのだよ。暗い館にひっそり、息をしているだけなのだよ。
「そう。わたくし、新しい方々とはうまくやっていけるかしら。今みたいにひっそり、息、できるかしら」
 なんだい、お嬢は不思議な心配をなさる。新しいとこに出て行くのだから、なにも私といるみたいにひっそりしなくったって、お外の人みたいに明るく振舞っていればいいんだよ。
 つらつら、言葉だけはどこからでも出てくるというのに、心の中にはそのような明るみはないのだ。思ってもいないことを語るというのはとても苦しいこと。私からすれば、今だって上等にお嬢は明るくきらめいて見える。
「でも息というのは、ひっそりするものよ。誰も、今息をするの、息をしているの、なんて見せびらかしたりしないものよ」
 お外を知らないわりに、お嬢は知った風な口を利く。だけどそれも限られたものと思うと可愛らしいのはやはり、この地で枯れると知った、老いぼれの幻というやつだろうか。
 お嬢は器用で女らしいのだから、心配しなくとも新しい方々をちょっと見てれば、同じようなことが出来るはずさ。
「そんなものかしら」
 そうだよきっと。お嬢のなんとかかしらも、いつかお外の方々と同じにやあらかくなっていくでしょうよ。
 そうなだめると、お嬢はますます不服を唇に募らせた。
「ますたぁ、嬉しくないわ、それって」
 お嬢が恨みがましい目を投げてくる。その目つきで、私を上から下までじろじろと見る。
 何だかくすぐったいね。
「なあに、変なお顔ね、ますたぁ。だらしないったらないわ」
 そうかい、そうかい。だけどそれも、あと少しのことだと思うと違って見えないかい。
「わたくしはますたぁとは違うのよ」
 お嬢が目にも明らかに呆れ返る。私は単に、たった一つこの世で見ておきたいものがあるだけなのに。どうしてそれっぽっちができないのだろう。
 お嬢はお昼寝をしていた。私は夜になっても眠れなかった。体が、壊れてくる。


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