六歳の私は大層おバカだったらしい。
 なぜなら、初めて一人で入った風呂に少年が居座っていることに、何の疑問も抱かなかったからだ。

 服を脱ぐ。髪を縛る。曇りガラスの戸を開けて入室。
「やあ」
 湯船から挨拶があった。私も手桶を握って
「久しぶり。元気だった? 風呂男」
 湯気をバックに花咲く笑顔で入浴中のそいつに答える。
 兄ではない。父でもない。弟はいない。
 なのに一五の乙女と同じ風呂にいるこいつは……私にも分からない。
 私が一人で風呂に入る時、こいつは必ずこうして私を待っている。
 初対面は六歳。家族が忙しかったために初めて単独入浴に挑んだあの日、そんなくだらないことなのに喜び勇んでいた小さな私は、ドアを開けた瞬間に絶望した。
 今壁の『おふろでおぼえる かんたん! 九九レッスン!』を読み上げているこいつが、いた。
 その状況はとても正気とは思えないものだったが、私の反応も間違っていた。
 怪しい奴がいたことにではなく、ただ、一人じゃなかったのが悔しいと泣いただけ。
 それから私は、この謎生命体と付き合い続けている。
 呼称、風呂男。
 見た目年齢は一五、六。初めてあってから全く変わっていない。
 顔は良い。とても良い。ベリーハンサム。体格の善し悪しは知らないが、多分良い。常に腰タオルでアピールする理由は全く分からないが。あと性格が分かりやすいナルシストなのも気に入らないが。
 総合すると、同級生でかなりのハイレベルみたいなもの。少女マンガならこれは大チャンスなのかもしれない。
 しかし、ここは風呂。
 誇るべき日本の文化である風呂とは、要するに裸の付き合いである。
 それが問題なのだ。
「カゼ引いてたのか? 海希」
「そうよ。久しぶりのお風呂だわ」
 ボディーソープを泡立てて体を擦る。風呂男は、ふざけて溺れかけた時でさえ三分の一もめくれなかった腰タオル姿で浴槽の縁に腰掛けた。
「学校は行ってたかい?」
「行かないよ。八度四分あったもの。でも今日は行ってきた」
 ふうん、と一息ついてまた話し出しそうな男を、私はシャワーヘッドで差した。
「それよ!」
 態度はでかいが大声に弱い風呂男が膝を抱える。
「今日は体育があったの。女子が三組で男子が四組で着替えるの。知ってるわね?」
 隠すタオルもなく腕も目一杯伸ばして言う。これに慣れきってる。そのせいで起きた悲劇だった。
「私、四組で着替えちゃったのよ!」
「マヌケだな」
 風呂男がそう笑い飛ばした。私の堪忍袋の緒も夜空の彼方にすっ飛んだ。
「お前のせいよ! 一五にもなって男の前で裸でいることに一切の抵抗を覚えないのはひとえにお前がそこで人の全裸と向き合ってるからなのよ!」
「海希こそ俺の裸見てんじゃん」
「私が見せろといつ言った! そもそもお前はタオルがあるし!」
「俺はカッコいいから全人類が見せて欲しいと思ってるはずだぞ」
 黙れナルシスト。かといって否定できないのが悔しい。洗面器と腕力で整形してやろうかこのイケメン。
「でもさあ、だったら海希は俺にどうしてほしいんだよ」
「一、服を着る。二、消える。三、女になる。四、死ぬ」
「男前女にはキョーミねえな」
 なぜ真っ先に三番へ向かうか。他人のツッコミにはまともに答えないナルなのでそれは言わない。代わりに一番優しいサービス解答をプッシュした。
「私としては着衣がオススメなのよね」
「風呂に入るのに服を着るなんてそんな非常識が許されてたまるかあぁァッ!」
 絶叫された。
 姿はおろか、こいつの声すら家族に届かないのは既知である。放っておくと、自分の声で頭がガンガンしたらしく、風呂男は三角座りに逆戻りした。
「と、とにかくっ、俺のタオルが取れないうちは、服なんてテコでも着ない!」
「テコで服着せられるとは思ってないわよ」
 でも、宣言した内容からすると、これはかなり本気だ。
 風呂男の腰タオルが持つ対視線防御力は尋常じゃない。今だって三角座りしているというのにせいぜい太ももくらいしか見えないのだ。あのタオルは物理的におかしい。
 私は戦法を変えた。
「ねえ、それって風呂の外なら服着てもいいってこと?」
 こいつの発言をまとめればそうなる。うちの家族にどう言おうと思ったけれど、それはひとまず置いておく。
「えー。そりゃまあ全裸で下界をうろつく文化はないけどさあ」
 お前は神気取りか。これも口には出さない。優しさと学習の賜物だ。以前こいつとのケンカを理由にお風呂がおあずけになったことがある。
「ほらほら、外では服を着るものよね? やっぱりここだけにいちゃ退屈じゃない?」
 さらに踏み込もうとすると、途端に風呂男はその視線に哀れみを込めた。
「入浴を娯楽の一種としてる奴に退屈だなんて……小さい頃、風呂で三時間は軽く遊んでたじゃないか」
「あれから八年、私だって見事に成長を遂げたのよ」
 確かに子供は風呂で遊び出したら止まらないけど。こいつだって小さい頃の私と水鉄砲だのアヒルだので遊んでいたのに。
 そして何より、今の問題はこいつを外へ出すことだ。風呂で何時間遊べようと関係ない。
「あんたが暇じゃなくても私が困るの」
「海希が気をつければいいだけの話だろ」
「慣れの恐ろしさを甘く見ないでよ。風呂男と違って、私には人間関係ってものがあるの」
「つまり、お願いだから風呂から出てきて下さいってこと?」
「……頭は下げないわよ」
 嬉しげに訊いてきた風呂男に先手を打つ。返事は舌打ち一回と考え中の沈黙。
 それから一言、風呂男は言った。
「別にいいよ。俺は今までここで快適に過ごしてきたんだ。今さら環境を変えたいとは思わない。それに、海希が困るのも見てて面白いしな!」
 満足げな高笑いに、私は即決定。絶対こいつ、風呂場から引きずり出す。


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