起承転結の起は済んだ。目的は決まったから、次は作戦。
 風呂上がり、麦茶片手に部屋へ戻り、ベッドにもたれて考える。
 どうすればあいつは浴室から出てくれるのだろう。あの口振りでは、もう頼んでも受け付けてくれない。あいつのわがままをどうにかできるほど、私は大人じゃないのだ。
 まず思い付いたのはエサで釣ること。しかしどんなものが奴のエサになるのか。そもそも風呂男に食べ物が必要なのか。
 考えたこともない大きな疑問の壁にぶつかる。そしてじわじわと好奇心が沸き起こる。
「……試してみるか」
 声に出してさら頷く。
 さっそく私は食料品を漁りに階段を下りた。


 ビニール袋に武器を詰めて、私は今日も風呂場に挨拶する。正確には、風呂男に。
「こんばんはー。ふろーとこー、見て見て。いいもん持ってきたわよ」
すねてるかも。そう心配しつつスーパーの袋を濡れたマットに下ろす。
「おお海希。なんだそれ」
 風呂男は案外素直に興味を示した。大好きな九九表からも目を離して湯船から出る。
 このくらいの気楽さで部屋からも出てくれれば言うことないんだけどね。
 とにかく、私は持っていたヘアバンドで髪を上げて袋を開ける。
「じゃっじゃーん! おやつ持ってきたわよー!」
 取り出したるは、バナナ。言わずと知れた健康とお腹に優しい栄養価たっぷりの黄色い果実だ。
 一般人なら誰でも知っている果物だが、風呂男にとってはまさに未知との遭遇。
 黄色い曲線を細めた目の先に晒して、
「どう? 食べる?」
「なんだこれ。アヒルの進化形?」
「違うわよ。間違ってもお湯には入れないでよね」
「じゃあどうするんだ?」
「言ったじゃない、食べるの。美味しいわよ」
 どうやって? と目で訊かれて、私は黙って皮を剥いて見せた。細かいことを言いそうな奴なので白い筋まで取って手渡す。
「はいどーぞ」
「ホワッツイズザット!」
「発音酷い! うちの婆ちゃんより酷い!」
「だって匂い甘い! それこそこの間の失敗だった入浴剤並に甘い!」
「いいからほら。どりゃー」
 問答無用に半開きの口へ突っ込む。こいつ口呼吸だ。外に出たら風邪引くかも。
 鼻呼吸に切り替えられない風呂男はふがふがともがいている……かと思いきや、一口目をかじり取って残りはきちんと手で持っていた。妙に真剣な顔でクリーム色の実を咀嚼してる。
「なあんだ。食べ物のこと知ってたの?」
「海希の話程度には。でも実際食ってみたらそりゃあ誰だって分かるだろ」
 珍しいもので釣ってやろうと思ったのに、これではちょっと仲良し度がアップしただけだ。どうしようと考える間に、風呂男はバナナ一本を食べ終えていた。
「えーとなんだっけ、そうそう、ごちそーさま」
 はいはいと上の空で返し、私は袋を覗き込んだ。まだいくつかこいつの知らなさそうなものはある。
「じゃあこれは? ラムネ!」
 実はお兄ちゃんの分なのでバレたらゲームのセーブデータが危ないけど、この際それは構わない。
 さっき以上に不思議なものを見る目で風呂男がビンを睨む。私はまた見せびらかすように開封した。
 ぱこん、という音に目を見開く風呂男。精神年齢の心配を脳裏によぎらせつつ、泡の沸くビンを手渡す。
「にゅ、入浴剤が食えるのか?」
「風呂の湯じゃないわよ。飲み物よ」
 出かかった舌打ちを飲み込んで、向けられる疑いの目を封じる。
「はい! 一気に!」
 風呂男は一瞬だけ浴槽を見て、ビンの冷たさを確かめ、ぐい、とラムネをあおった。
 そんな勢いで飲んだら、と言うより早く、風呂男はラムネを膝に吐き出した。もったいない。
「何だよこれ! 辛い? というか痛い!」
「炭酸飲料っていうのはそういうものよ」
 チョイスが悪かったかな。付き返されたビンを受け取って反省。珍しさだけを条件に選んだから不評だった時のことは頭になかった。
 とりあえず、話を変えてごまかす。
「で、どうだった? こういうのが外にはもっといろいろあるのよ」
「それって……」
「大丈夫。炭酸以外の飲み物もあるから」
 精一杯に優しい笑顔で、私は風呂男を下界に誘う。風呂男はしばらく悩んでいたが、やがて晴れ晴れとした表情できっぱり、
「今日持ってきたもの、俺を外へ連れ出すために用意したんだろ? そのくらいお見通しだぞ」
 夜の風呂場に、乾いた平手打ちの音と、理不尽な攻撃に対する風呂男の「なんでだー」という悲鳴が響いた。


 エサで釣る。この作戦はアウトだった。
 なら次は力ずくで文字通り「引きずり出す」。正直に言うと私はそれほど賢い訳じゃない。風呂男と並べば立派なツッコミとして機能できるけど、思い付ける戦法なんてこんなものだ。
 それに風呂以外の世界を知らない奴にそこまで体力があるとも思えない。そういえばあいつと一度だけ腕相撲をした。石鹸を駆使したズルで負けたけど。
 となると……不意打ちか。
 うん、これは使えそう。寝る前にそこまで決めて、私は歯磨きをしに一階へ降りた。


inserted by FC2 system