ミカンというのは変わった名だった。年をとることのなくなった彼女は、最初から最後までくすんだ木の匂いしか漂わせてはいなかった。どこか口調がとぼけていて、まどろっこしい思いをさせるものだった。
 彼女とは知り合いの会社で出遭った。引き取り手のない彼女をしばしの間連れておいてくれと、そういう頼みの電話に呼ばれて、私は都会行きの列車に乗った。引き受けた荷物は茶色い装いに身を包み、目を閉じて私を待っていた。彼女を家に招き入れた私は、電話で知り合いから彼女のことを聞き、それからはいつも通りに部屋の暗さに溶けて過ごした。
 彼女が来て、明かりを使う機会が増えた。私は暗がりが懐かしいと同時に、空の日が落ちるのをもったいなく思うようになっていた。外が暗くなる頃には、彼女は私以上に素晴らしく暗闇に溶け込み、その表情や気配すら窺わせなくなってしまうのだった。本来は物のない部屋の中で、私はどうしても彼女の存在が気になり、部屋の壁に張り付くようにして寝ることにした。よく眠れない夜が続いた。
 ほんの数日だったが、彼女にはほとんど触れることなく過ごした。私は先日の知り合いとの電話以外に、自ら何かへ言葉を発するつもりなどなかったし、彼女も当然そんなことはしなかった。気配だけが一つ増え、音には一切変わりのない生活は私にとってわずかの苦痛であり、世間にとってとてもつまらなくどうでもいい変化であった。苦痛ではあったが、決してよくない出来事などではなく、ただ、私は新しいものというのにとても不安定にさせられていたのだ。
 ある日知り合いからふたたび電話が来た。知り合いの会社が彼女を必要としているため、彼女はもうすぐ会社に帰らなければならないと言う。その前に私に仕事をしてほしいとのことだった。彼女に新たな名をつけてくれと、そう頼まれたのだった。ミカンというのはどうやら正しい名ではなく、はっきりしない本名の代用品に、仕方なく知り合いが判子でつけたものだったそうだ。それではあんまりに可哀想だからと、迷った末、私に名付け親の役目が回されてきたのだ。名を頂く前に名付け親を失うことは、この世界では割合珍しい出来事だったのである。
 けれどその仕事は、私にとって予想以上に難しいものであった。彼女と過ごした時間は短く、彼女のことはろくに知らないのだ。そして私は何ものかを問わず、名前など今まで一度も考えたこともない。その上、私は少々変わった思考回路の持ち主であると他人から評されることが多いのである。知り合いにそのことを訴えると、彼は彼女についていくつかの知識を授けてくれた。彼女は何よりもまず少女である、と。
 少女と言えば花であった。彼女は私の明かりではなかったが、明かりを必要とする花であった。けれど私が考えた言葉をそれだけで名前にするのは怖いものがあり、私は彼女の名に、小さな花を加えるにとどまった。知り合いにも電話で幾度も幾度も、これをそのままに彼女の名とするかどうかはそちらでよく話し合った上私ではない誰かに確認をとって選んでください、としつこいほどに頼み込んだ。五度目でいい加減分かったからもう電話はいらないと言われてしまったが、それでもあと二回注意を受けるまで、私は念押しをやめなかった。彼女だってしつこいとは言ってこないと調子に乗っていた節もあるのだろうか。まったくばかな理由ではあるが。
 とにかくそうして、私は彼女を連れて知り合いの会社へ行った。知り合いに彼女を引き渡し、すぐに帰るべきか最後の念押しをするべきかと思っていた時のことだった。知り合いがこう言った。読んでいきませんか。


 私は一枚一枚と、ゆっくり頁を捲っていった。出版社の電気はうちにあるものよりずっと明るく、読み終える頃には外が暗闇となっていたにも関わらず、ちかちかすることもなく私の手元を照らしていた。緩やかに、という言葉と、判子でつかれたミカンという印で、原稿は終わっていた。
 知り合いは私に、なぜこの作品を彼女と呼ぶのかと聞いた。私はもやもやとする言葉の渦を抱えながらも遂に答えず、知り合いはそうか、と言って大きく一つ溜め息をはいて、ではこの作品の名前が決まったら教えましょうと約束してくれた。
 私は今、知り合いからの電話を待ちながらこれを書いている。彼女の遺作は雑誌に掲載されるらしい。作者を亡くした終わらない物語は、一体どんな名前になるのだろう。
2010/夏

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