「風呂男ー、ただいま」
 髪留めを外しながらドアを開ける。タイルの上に敷いた薄緑のマットと、半分閉じられたクリーム色の蓋が視界に入る。
 閉じられた?
「あれ? 風呂男?」
 見当たらない。いつもなら湯船に浸って幸せ満点なあいつが迎えてくれるのに。
「風呂男! どこよー?」
 後ろ手に戸を閉めて立ちすくむ。外に響かない程度に音量を上げる。
「ちょっと、出てきなさいよ。風呂男! 風呂男っ!」
 三日ぶりになる自宅の風呂には、お気楽イケメンナルシストの姿が、なかった。
 誰もいない風呂場は思っていたよりずっと広かった。
 どうして。消えた? 消えた?
 私はあいつに会いたいのに? 会いに来たのにどうしていないの?
 思考がごちゃごちゃと絡まって遠くなっていく。この間の確信はそれと反対にほどけて溶ける。
「なんでいないのよ……っ」
 この状況で、なぜか無性に苛立ちが募る。怒っている場合じゃないのになんで。自分でもよく分からないままだった。
 よく分からないまま、一声、
「風呂男おぉーっ! 出て、こーいッ!」
 私は怒鳴った。大きな深呼吸をそのまま音に変える。家族が駆けつけたらどうしようとも、その時は考えられなかった。
 湿気の充満した空間に怒声が響く。近所迷惑に思い切り力を込めて、見えないあいつに命令形で。
 耳が痛いほどの大声で呼びつけ、呼吸を正して反応を待つ。
「…………」
「……う、うう。頭いてえ……」
 半分閉まった蓋の奥から、か細い泣き言が聞こえた。
「風呂男!」
 大声に弱い風呂男には追い討ちになると知って、それでも思わず叫んだ。駆け寄って蓋を取る。
「何やってんのよ!」
「おおお、お願いだから、叫ばないでええ……」
 普段の半分くらいまで減らされた湯船で、丸まった風呂男がぶるぶる震えていた。
「なんで隠れてるのよ」
 一気に肩の力が抜ける。だって、いないなんて、そんなの……消えたかと思った。
「なんでってなんでって、そんなの決まってるじゃないか」
 涙目を引きずりっぱなしの風呂男が浴槽を出ながら目を擦る。
「この間の話を聞いて、俺だってちょっとは考えたんだよ。それで、決めた」
 ふいに声色が真剣みを帯びる。私はマットに座って、バスタブに腰掛けた風呂男の言葉を拝聴する姿勢をとる。
「俺は消えたくないし、海希も消えて欲しくないって言ってくれる。だから……」
 ほんの僅かに顔を伏せ、泣き笑いに似たたれ目を作る。見たことのない表情に、内心で慌てた。口を挟みたくなって、膝を掴んで堪える。
「俺、やっぱり……」
 決意の滲む声。
 静かな風呂場に呼吸音が落ちる。
 ゆっくりと風呂男が顔を上げる。
 その表情は確信と決意に溢れ、ていなかった。
 これは違う。感じた次の瞬間、
「やっぱり外には出たくない!」
 反射だった。
 全部反射だった。
 洗面器を振り上げたのも、その使い方が鈍器同然だったのも、片手でドアを開放したのも、洗面器を放棄して風呂男の髪を掴んだのも、しっかりと足をふんばったのも、焦りきった抗議に鼻で笑って返事したのも、
 だあ! と叫びながら風呂男を脱衣所に蹴り出したのも、反射だった。
 顔面から床にダイブした風呂男が、ぶぐ、と呻く。私はシルエットがカエルになっている風呂男の背中に、左足を踏み下ろした。
「何弱っちいこと言ってるのよ! あんたといつまでも裸オンリーの付き合いやってたら普通の感覚に戻れないじゃないの! 消えるのはそりゃあ誰だって嫌よ、分かるわよ! でもあんたはずっと風呂から出ないつもり? 何よそれ! 私だって風呂くらい一人で入れるわ! 私、いつかお前のこといらなくなるわよ!」
 ほぼ一息で捲したてる。すっと言葉を切って足を下ろすと、風呂男は恐る恐るこちらを振り向き、正座。そして今度こそ確信と決意……など一欠片も見えない、人を小馬鹿にした笑顔でこう言いやがった。
「何言ってるんだよ、海希。俺が必要のないお前なんて、甲羅のないカメみたいなもんじゃないか」
 完全に別方向の確信と決意が、その言葉には満ちていた。腹が立つけれど、同時に変な安心感を覚える。
「ま、あんたはそういう奴よね」
「だろー? いい加減寒くなってきたし、風呂入ろ、う、うあああああ!」
 台詞の後半が絶叫になった。同時に風呂男が勢いよく立ち上がり、ドアの枠を掴んで旧・風呂男の巣を覗き込む。
 誰もいない浴室。青ざめる風呂男。
「やったわね。無事、風呂場から出られたじゃない!」
 私はぱちぱちと手を叩いて素直に喜ぶ。この後家族にしつこく問い詰められるのは目に見えているが、何にしてもこの成果は素晴らしい。
 反対に風呂男はほとんど錯乱状態だった。今さら自分が風呂から出ていることに気づいたらしい。回っていない呂律で
「どどどど、っ、どうしよう、海希ぃ! 俺消える!」
「どこがよ。消えてないじゃない。それよりせっかく出られたんだから、さっさと体拭いてよね。服も持ってきてあげるから着なさいよ」
「そうじゃないだろ! だって俺外とか出ないし!」
 言っていることがまとまりをなくしている。風呂男は勝手にピンチ設定へ飛び込み、同時に風呂へも飛び込もうと一歩を踏み出して
「わわっ!」
 と転ぶ。
 私は知っている。最近の彼は運動不足を超えた何か新しい言葉を必要とするほど、全く運動していないのだ。二人であの狭い浴室を走るにはちょっと私が育ちすぎた。横じゃない、縦に。
 この頃床とお近づきになる機会がめっきり増えている風呂男は、今度は膝からドアの枠へ落ち、悲鳴と共に俯せに倒れて即座に飛び起きた。
「いいっ、たああああ! 痛い! うわじんじんする! 今ガッていった!」
 本日何度目かになる悲鳴。両膝を器用に押さえてぴょんぴょんと飛び跳ねる風呂男。私は溜め息一つ、
「ほら」
 と手を差し出した。風呂男はその手を掴もうとして
「お?」
 あることに気づいた。
 あ、と思ってさらに手を伸ばすも、時既に遅し。大きく一歩下がった風呂男は、中途半端に勝利を誇るような笑みでこう言った。
「なんだ、ここ風呂の中じゃん」
 言い切って、続く高笑いが堪忍袋の緒をぐいぐいと引っ張る。
「あっはは、心配して損したー。お生憎様、海希。俺はまだまだ風呂の住人として居候させてもらうぜ?」
 ハートか星でも付きそうな語尾とばっちりウインク。
「もう一回蹴飛ばされたいか! このナルシスト!」
 私の絶望と呆れに満ちた悲鳴は、風呂男が蛇口を捻って出した水の音に掻き消される。
 もちろん、私が言葉通りもう一度風呂男を蹴り出し直したのは言うまでもない。
 斯くして、最初の目的など無限の宇宙に消し飛ばされた私と風呂男の小さなチャレンジは、家族からの猜疑心溢れる視線という嫌な遺品を残して、一応の成功で幕を閉じたのだった。
 ふう。
2009/初夏

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