「おはにちばんは、海希」
「一日に話す語数をそれ以上まとめるな。こんばんは、風呂男」
 次の夜、いつもより早めに風呂へ向かった私は、壁の世界地図で国の数を数えていた風呂男と挨拶を交わした。
「あんた、一日にどれくらい喋ってる?」
「俺なら窓の外を飛び交う小鳥とでも自由に会話できるぜ」
「私が風呂にいるのは長くて四十分くらいでしょ」
 構ってやるとどれだけ時間があっても足りないので、勝手に話を進める。
「で、髪洗ってたりすると聞こえないし喋れないから最長三十分よね。一日に人と接する時間がこれだけって、あんた相当暇じゃない?」
「全ッ然! ほら! だって俺にはその三十分をフルに遊ぶだけの頭脳があるからな!」
 答えになっていない上に頭の悪い返事をして、風呂男は湯船から出てきた。私の背後に仁王立ちする。私が髪を洗っている最中なので足元に泡を浴びた。
 さてと。
 まさかこうもすぐに訪れるとは思ってもみなかったチャンス。
 私が内側、あいつが扉側の、突き飛ばすのに絶好の構図。
 シャンプーの泡を洗い流して、私は後ろで鳥みたいに踊っている風呂男を振り向いた。決して下手ではないのが悔しい。
「リンス切れちゃったみたい。取ってくれない?」
「はいはい。もう、海希は俺に頼りっぱなしだな!」
 先ほどから一切せりふを否定されていないせいか、風呂男は上機嫌でドアを開けた。
 ガチャリ、と分かりやすい擬音の似合うドアノブの回転。私は同時にひざを立て、音もなく立ち上がった。
「あれ? リンスないぞ。お前の母さん買い置き忘れて――」
 風呂男が脱衣所へと身を乗り出す。
 その、意外に広かった背を、
「もらったああぁ!」
 蹴り飛ばし
「さささ、っ、させるかああぁ!」
 損なった。
 風呂男は体をひねり腰を沈める。突き出した右足は彼の脇腹に命中したが、前方への動力にはならず、代わりに風呂男は仰向けに倒れた。
 完璧に失敗。
「いっ、てて! 何するんだよ、海希!」
 風呂男が起き上がりながら被害を訴えた。私はため息で答える。
「昨日の決意を今日の行動で示してみたのよ。失敗したけど」
「失敗どころじゃねーよ! 海希、ちょっとこれ見ろ」
 そう言ってこちらに背中を向ける。少しだけ擦りむけていた。
「大したことないじゃない。それよりなんで避けるのよ」
「こここここっ、怖いだろ! だって俺、ここから出たことないんだぞ! ていうかお前、俺の仕組み知ってるのか!? 風呂から出たらどうなるか分かったもんじゃないぞ!」
 捲したてて音量にふらつく風呂男。その涙目に、私はふとあることに気が付いた。
 風呂男は不思議だ。
 なぜ私が一人で風呂に入る時にしか現れないのか。二人で入浴中に家族がやってきても、姿も声も伝わらないのはなぜか。そもそも男なのか。腰タオルがチラリしないのはどういう仕組みか。生き物なのか。
 何のために風呂男がいるのか。
 数え出したら切りがない。
 私はこんなにも、風呂男を知らない。
 こいつが風呂にいるのはなぜ? 風呂でしか存在できないからここにいる? なら、私がやったことは?
「……ごめん」
 耳を塞いで三角座りする風呂男は、何も答えてくれなかった。
 マットに残った泡をシャワーで流し、洗面器を片付けて風呂を出る。体を拭きながら、私が悪かったのかと自問した。
 その晩は、風呂男の怯えた背中が夢に出るのが怖くて、夜中を過ぎても眠れなかった。明日から三日も休みなんだから、それくらいどうってことないと意味もなく言い聞かせた。


 力ずく計画が失敗に終わった翌朝、私は気まずい空気漂う風呂場へ向かった。入浴ではなく、会話のためだ。
「おはよ、風呂男」
 風呂男は昨夜と同じ場所、同じ姿勢でしゃがみ込んでいた。
「暇なんでしょ。どうせ小鳥と爽やかに話したりできないんでしょ」
「……」
「昨日はごめんね。でもやっぱり、私はあんたに風呂から出て欲しい。私のためでもあるし、それにあんたが消えないように」
 単細胞な頭が最後の言葉に反応して振り返った。
「海希、それ、どういう……?」
 私だって少しは考えた。こいつ相手にしかツッコミ担当できない頭を絞って絞って滴り落ちた、ひとつの推測。
 私が一人じゃないと、会えない理由。
「消えて欲しくなんかない。消えられたら困る。私が一人でお風呂にはいるのが怖いから、あんたはいてくれたんだよね」
「怖いって、海希はそんな子じゃないだろ」
「今はそうかも。でも私、結局一人でお風呂に入ったことなんて一度もないんだよ。だって必ず風呂男がいるんだから」
 六歳のちびっ子が怖い思いをしないようにという、どこの誰だか知らない奴から寄越された、こいつは私の保父さんだったのだ。
 それがどうして風呂から出ることに繋がるのか、本人は理解できないようだった。
「私にとってあんたが必要だからあんたがいる。あんたがいらなくなったらあんたは消える。もう風呂怖いとか思わないし。でも私はいてほしいの」
 否定も疑問も、何一つ返信されなかった。小さな擦り傷を乗せた背中に、私は一番の大事なことを告げる。
「外でも面倒見てくれる?」
 最初の目的と、完全にすり替わっていた。ただ、裸の付き合いに慣れ切ってちゃマズいと思っていただけなのに。でも言わないと、風呂男はいなくなる。私一人が否定するだけで、こいつを肯定する人は誰もいなくなってしまう。
 言い置いて廊下へと逃げる。意図的な赤ちゃん返りは、結構恥ずかしいもんだなあ、と早足で。


 それから私は、というよりうちの家族は、三連休を隣県の旅館で過ごすことになった。温泉の有名どころを所望したのは兄だった。
 風呂男と気まずいことになっていた私には丁度いい冷却期間で、女しかいない風呂に違和感を覚えることに自己嫌悪を深めながらも、私は帰って風呂男に会うのが楽しみだった。
 私が必要としたから現れた奴なのだ。私の気持ちだってくみ取ってくれるに違いない。


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