夏の夜は危ないよ。『やつら』の足が見えないからね。頼りになるのは、足音を聞きつける君の耳だけだ。自信のない子は身を守るものを持って出かけなさい。
 ほら、『やつら』の足音が聞こえるだろう。

 その話を聞いてみんなが笑った。放課後の教室。掃除の時間にきちんと並べた机を好き好きに傾けて、彼らは夏の午後をつぶしている。
 外は暑い。そんなこと気にしないのが小学生だと大人は言うけど、一度エアコンの効いた教室に慣らされてしまえば、どんなに若くたって怠惰からは逃げられない。それに六年生なんて、誰もが大人ぶりっ子したいお年頃なのだ。窓の外の下級生たちを、若いね、なんて言ってみる遊びにも、涼しい教室はうってつけ。先生たちが、冬の体育で長袖長ズボン姿なのを責められて「先生もう若くないから」って言うのの真似っこがしたいんだから。
 彼らの知的なお遊びも大人の真似っこ。道具はいらない、玩具なんてもってのほか、ゲームだって、ばかみたい! 男子って子供なんだから。
 そういうわけで、彼らはおしゃべりをしていた。彼らと言っても、男子は一人、残りの四人は全部女子。理由は単純、男子って子供だから。だけどここに混じっている彼だけは特別。お勉強がとってもよくできるのはもちろん、体育だって得意だし、それなのに汚れるボール遊びをばかみたいに喜ばない。給食のおかわりも、変に急いだりしないし「もらっていいかな」ってちゃんと聞く。一番いいところは、ランドセルがきれいなところだ。おこちゃまな男子のランドセルは、六年生にもなるとぐっちゃんぐっちゃんのぺっちゃんこになっている。
 彼は女子たちに一目置かれていた。だから彼の意見でおしゃべりの方針が決まる。夏は怪談、怖い話で涼しくなろう。先生に見つかったら怒られそうなくらいキンキンにエアコンをかっ飛ばしている教室で、これ以上涼しくなったら夏風邪引いちゃう。なーにが特別よ、やっぱり男子は子供ね、なんて誰も言わない。そういうグループなのだ。力関係は一年生の頃からじわじわと作り上げられてきたもの。いまさら彼の足場がひっくり返ることはない。
 で、彼らは怪談話をしている……というのは私の妄想だ。だけど彼らが怖い話をしているのは確か。
 私はそれを、後ろのドアをちょっと開けて覗き見している。
 友達って言える人がいない教室に、しかもおしゃべりで盛り上がっているところに、おじゃましまーすえへえへ忘れ物しちゃった、なんて入って行けない。ただそれだけで、ここにずっといるわけでもないし、怪談をするって決めたのが彼かどうかも私は知らない。
 私はただ、忘れ物を取りに階段を上がってきて、知っている声が語る怪談を聞いてしまって、教室には入れないと分かったくせに気になってしまって、少しだけ開いていたドアの隙間に顔の半分を押し付けている、だけ。
 だからさっさと帰るのだ。怖い話と笑い声を背に、廊下の端まで一直線。走らないけれど。
 逃げてるわけじゃないんだから。塾があるから急がないといけないの。忘れ物は、お母さんに借りてた折り畳み傘。帰りに雨が降るかもよ、と持たせてくれたものだ。だけど今の空はすかっと晴れ。雨なんてこれっぽっちも降って来そうにない。
 階段を二段飛ばしで駆け降りる。昇降口に人影はない。下駄箱から残り少ない下履きを取り出して、私は西門への石畳を走った。

 アパートの自転車置き場でランドセルから鍵を取り出し、自転車を発進させる。傘はお母さんの自転車に引っ掛けておさらば。コンビニに寄っておやつを買って、五時半から始まる塾へ向かった。一階の廊下に椅子があるから、そこに座って食べるんだ。お母さんの用意してくれてる晩ごはんも食べられるように、おやつはきちんとひかえめにしてある。それに女の子は体型を気にするものなのよ、ってこれはクラスのぽっちゃりさんが言ってたんだけどね。
 でもなんでだろう。何も気にせずシュークリームをおやつにしてる私はがりがりで、あれこれ気をつかって給食のきゅうりサラダを山盛り食べてるあの子はぽっちゃりさん。世の中って理不尽だ。私はもう少し体重が欲しいくらいなのに。このままだと、運動会の組体操でピラミッドのてっぺんに登ることは間違いなしだ。それは太るのよりヤダ。
 教室で毎日、少しずつ浮くのは構わない。だけど大きなイベントでみんなの真ん中で目立つのは嫌なの。見慣れたクラスメイトだけじゃなく、縁もゆかりもない下級生やその親たちにまで、目立ってる私を見られたくない。かといって、クラスメイトに見られるのも嫌だけど。たぶん、むかついてむかついて、暴力振るっちゃうと思う。
 シュークリームのクリームをべたべた舐めていると、一度も授業を受けたことのない先生にちらっと見られた。これは別に気にならない。むかむかやいらいらは、どきどきなんかよりずっと不思議だ。
 食べ終わった袋を、指が汚れないように丸めてゴミ箱に放り込む。命中を喜ぶほど遠くでもない。甘ったるくなった口の中を水筒に残したお茶ですすいで、教室へ入ることにした。三階の3‐2という教室だ。全部そろえば二十人くらいにはなる生徒は、まだ五人も集まっていなかった。
 一番後ろにいた子が振り向く。なあに? って首をかしげると、すぐに目をそらされた。そんなことするならこっち向かなくていいのに。右の端っこでおしゃべりしてる女子二人みたいに、私たちは私たちのことにしか興味がないのよって背中で語るくらいしてみなさい。
 なんてことを口に出して言うわけにもいかないから、私は黙って教室のど真ん中の机を確保した。ま、みんないっつも同じ席にしか座らないんだけど。
 同じ塾、同じ教室、同じ席から同じ先生を見て、いつもと何にも変わらない授業はつつがなく終了した。

 時刻が午後八時ともなると、夏とはいえ、外はだいぶ暗い。自転車にまたがって塾の前を離れると、目の前にはオレンジ色の街灯がずらり並んでいた。車道にはライトを灯した車がそこそこに通っているようだけれど、歩道の方はほとんど誰もいない状態だ。しゃっとペダルをこぎだし、ある言葉を思い出す。
 足音。
 夏の夜。
 危ないよ、と笑いを含んだ声が言う。男の子の怪談だ。ばっかばかしい!
 次の信号が赤に変わる。真面目に、歩道の内側でタイヤをとめる。風がやんだ。違う、風なんてないんだ。自転車こいでたから、それをやめたから、だからこんなに空気がぴったり、肌にはっついてくるんだ。
 暑い、と思って左手で顔をあおぐ。ひやりと汗の乾く感覚がしてすぐにやめてしまう。どこからか風が吹いたのだ。夏には似合わない冷たい風。このどきどきは、なんだろう。
 ふと不安に襲われてランドセルを開ける。身を守れるようなものは入っていなかった。そして、信号はまだしばらく変わらない。冷ややかな風が、さっきより長くゆるく流れてくる。足音も、それに乗って聞こえている気がした。悔しいことにどこから吹いてくるのか分からなかったから、辺りをぐるぐる見回してみる。
 だけど『やつら』の足は見えなかった。影もかたちも、光がなければ目には見えない。
 風はどんどん冷えていく。気配はどこかにあるような気がする。においさえも、そこいら中に満ち満ちている。
 遠くから音が聞こえた。足音だ。だけどどこから来るのか分からない。信号が青に変わる。青の時間は、赤と比べてとても短い。だけど渡る踏ん切りがつかない。この向こうで足音の主が待ち受けているかもしれないから。
 音が迫る。はっきりとこちらに進んでいることが聞き取れる。振り返ると、ぼんやりとだが白っぽい影が見えた。
 自転車のペダルを思い切り踏みつける。ハンドルに体重をかけて立ちこぎする。横断歩道を渡り切る瞬間、信号がちかちかと点滅を始めた。音はいよいよ大きくなっている。気配なんておぼろなものは、追いすがるような風の激しさのせいで感じ取れなくなっていた。
 大通りの信号を、二つまでは無事に渡った。これを越えれば逃げ場がある、という横断歩道。信号は点滅、車はなし。渡ってもいいかな、と思った瞬間、点滅がやんで赤色が点る。
 自然と両手がブレーキを握りこんでいた。限界まで速度を上げていたつもりだったのに、自転車はいとも簡単に止まってしまう。
 そして、『やつら』が私の肩に手をかけた。

「きゃーっ、もうやだ! びしょしょっ!」
 人気のない夜の道、ランドセルを背負って自転車で信号待ちをしている女の子が声を上げる。彼女の頭上を、遅い夕立が駆け足で通り過ぎていく。
 街灯のオレンジに染まったしずくが、少女にも自転車にもランドセルにも、平等に、好きなだけ降り注ぐ。雨はやがて途切れ、あとには少しだけむんと湿気た、だけど心地よく冷まされた夏の夜の静けさが残る。
 ようやく信号が変わって、自転車はゆっくりと横断歩道を渡り始めた。家まではもうほんのちょっと。あの子が風邪を引くことはないだろう。
 夕立の足跡をなぞるように、自転車は軽快に家路を走る。もっとも、運転手の心が軽くないことは、への字の唇を見れば分かることだったが。

2012/10/17

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